一生懸命にやったんだけれど、時代の流れには逆らえなかった。崇禎帝 - Wikipedia: "崇禎帝 (すうていてい)は明朝17代の皇帝にして最後の皇帝。彼の治世は農民反乱が頻発し、満州族がたびたび侵入し混乱した。李自成が流民を組織し起こした反乱により北京が占領されると自殺し、明は滅亡した。生年1611年2月6日(万暦38年12月24日)没年1644年4月25日(崇禎17年3月19日)
泰昌帝の第5子として生まれ、兄天啓帝の男子が皆夭折していたため、その急死後、皇帝位を継ぐことになった。即位すぐに、兄の下で専横を奮った宦官・魏忠賢を誅殺し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組む。当時は北に満州族の後金が進入し、南では李自成たちの反乱が多発したまさしく国事多難の時期であり、崇禎帝はこの状況をたった一人で支えようと努力した。"
Wikipediaの評価は次のようなもの:
崇禎帝は少なくとも彼なりに国の事を案じて大変な努力をしていた。李自成が西安で皇帝に即位した時も「明の皇帝は甚だしく暗君という訳ではないが・・・」とある程度の評価をしている。その猜疑心により全てが裏目に出て自滅した崇禎帝だが、その原因は明が既に亡国の淵にあり、更には国政に与る士大夫層が長年の政治的腐敗により使い物にならず、信用ならない存在であることを突きつけられたことにあるといえる。滅亡寸前の明王朝の国力を回復させるために、国政改革に身を投じたものの、万暦帝らの悪政によって決定づけられた衰退の流れを止めることができず、最終的に痛ましい最期を遂げなければならなかった。時運に恵まれなかった悲劇の人物であろう。
同じ王朝が長く続くと必ず制度疲労が生じる。時々「革命」が必要なわけ。明治維新より150年続いている薩長イナカモン王朝もそろそろおしまいにするべき時か。
1 件のコメント:
政敵を
特高使って
倒すのは
甲東・川路の
お家の芸か
弐キ参スケも
その癖多し
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